柳田聖山『ダルマ』(講談社、昭和56 ; 人類の知的遺産16)

柳田聖山『ダルマ』(講談社、昭和56 ; 人類の知的遺産16)

著者は大正生まれの仏教学者で、大谷大で真宗学を専攻、のち京大教授に。
本書では禅の初祖ダルマの人物と思想に迫っています。

第3部「ダルマの思想」と題する敦煌本「二入四行論長巻子」の翻訳と解説がメインですが、ここに至るまでに唐代以前の中国仏教と禅宗の広がり、ダルマの伝記の変遷に言及しており興味深いところです。
(「敦煌本」とは1900年出土の文献群で、伝来の仏教経典との異同が当時の研究課題になっていたとの由です。)

禅の受容の過程で特に興味深いのが中国禅との差異で、室町以降の日本臨済宗、日本曹洞宗は当時の中国の最先端の禅とはかなり異なっていたようです。

明末の混乱を経て日本に逃れた隠元禅師、「臨済正宗」を称するも室町以降の日本臨済宗とはなじまず、やがて将軍家から黄檗山万福寺を与えられ、独自の教派として黄檗宗を成立させています。同様にして曹洞宗の心越禅師が渡日するも、同じく道元以来の日本曹洞宗とはなじまず、この黄檗宗へと吸収されていきます。

かくして明末における中国禅の最先端は黄檗宗に結実し、日本禅宗の新たな一分野へ。

他、ダルマの伝記では、初期経典でペルシャ人とされていたダルマが「南天竺の人」と変容していく過程に迫り、初期禅門における権威づけの必要性に迫っています。


【本文より】
○こうして、『洛陽伽藍記』のいう波斯の胡僧より、ダルマは南天竺の人に変わる。南天竺は、ブッダの正法眼蔵を伝える新大乗の根拠地である。(p.104)

○心は、おちつくも、おちつかないもないのである。探しても見つかりません、心を求むるに不可得とは、たんに心が見つからぬという、絶望の言葉ではなしに、自分の心の本質を言いあてた、自己確認である。(p.108)

○「修行のめあてとして、何を法とすればよろしいか」
「悪をみてもことさら嫌わず、善をみても進めず、愚をすてて賢をとらず、迷いを払って悟りを求めず。大道に達するが、大道には数量がない、仏心に通ずるが、仏心には限度というものがない。凡にも聖にも足あとをのこさず、超然としてあるのを、祖と名づける」(p.112)

入矢義高訳注『臨済録』(岩波文庫、1989)

入矢義高訳注『臨済録』(岩波文庫、1989)

唐末の臨済禅師の言行を弟子の慧然がまとめたもの。

最後に伝記が付されており、これによると禅師は当初戒律の研究を志すも教外別伝の本義はここではないと気づき、黄檗禅師に弟子入り、のち師匠である黄檗の薦めで大愚禅師の元に参じています。

教派意識よりも師を超えることに重きが置かれ、師と同等の見識では師の徳を減じることになる、とされた禅家の家風において、臨済は自己の主体化を説きつづけます。

禅といえば、訳の分からんことを言って怒鳴ったり殴ったりしている印象がありますが、問題の枠組み自体を壊すアプローチ、論理のフレームを捉え直すプロセスと思えばそれなりにわかったようなわからんような気になります。

【本文より】

◯もし君たちが外に向かって求めまわる心を断ち切ることができたなら、そのまま祖仏と同じである。君たち、その祖仏に会いたいと思うか。今わしの面前でこの説法を聴いている君こそがそれだ。(p.35)


◯みんな古人のつまらぬ仕掛けに乗っかってくる。わしのところには、人に与えるような法はなにもない。ただ修行者の病を治し、束縛を解いてやるだけだ。[中略]改めてお前たちに言おう。本来、仏もなく法もなく、修行すべきものも悟るべきものもないのだ。それなのに、ひたすら脇みちの方へ一体なにを求めようとするのだ。盲ども!頭の上にもう一つ頭を載っけようとは。一体お前は何が不足しているというのだ。(p.101)


◯諸君、まともな見地を得ようと思うならば、人に惑わされてはならぬ。内においても外においても、逢ったものはすぐ殺せ。仏に逢えば仏を殺し、祖師に逢えば祖師を殺し、[略](p.97)


◯諸君、仏を至上のものとしてはならない。わしから見れば、ちょうど便壺のようなもの。菩薩や羅漢も手枷足枷のような人を縛る代物だ。さればこそ文殊は剣に手をかけてゴータマ仏陀を殺そうとしたし、アングリマーラは刀を手にして釈尊を殺めようとしたのだ。諸君、求めて得られる仏などありはしない。(p.140)

大賀祐樹『希望の思想 プラグマティズム』(筑摩書房、2015)

英米思想史を専門とする80年生まれの気鋭の哲学者が一般向けにプラグマティズムの思想とその変遷を説いたもの。

パース、ジェイムズ、デューイの御三家から再発見者クワイン、現代思想におけるプラグマティズムの系譜と盛りだくさんの内容です。

ひとくちに「実用主義」と訳されるプラグマティズムですが、その中身はゴリゴリの合理主義でも妥協の実利主義でもありません。(これゆえ著者は、「実用主義」との訳語を用いず、プラグマティズムとして説明しています)

必要十分な共生の思想。正義論に新たな視点を提供しうるものです。


【本文より】

◯プラグマティズムが重視したのは、ある考え方が何を生み出し、人びとをどのような行動に導いてゆくのか、ということである。しかもプラグマティズムは、思想というものを、謎を解き、疑問解消するための「道具」とみなしている。というのも概念の価値は、それが何であるかではなく、結果として何を生み出すかで決まるからである。

◯ある問題に対する「正しい」考え方も、複数あり得る。場合によっては全く相容れないこともあるだろう。こうした状況においてプラグマティズムは、何が「正しい」考え方なのか、あらかじめ決めておくことはできず、問題のあり方も、時代や文化によって異なるので、その都度、うまく問題を解決できるものが「正しい」考え方であるとする。

◯プラグマティズムは、究極の真理を探究しようとするのではなく、終わりなき「対話」によって、今まで誰も思いつかなかったような、「世界」についての新たな観点を生み出すかことを目指す。そのような手法で導き出された「世界」についての観点においては、その時点で最も「うまくいく説明」が採用されるが、常にそれは修正されてゆくのである。

ひろさちや『わたしの歎異抄』(すずき出版、1999)

ひろさちや『わたしの歎異抄』(すずき出版、1999)

東大印哲出身で一般向け仏教解説を多く物す著者の大乗仏教論。『歎異抄』前半の親鸞の語録を題材に、日本の大乗仏教のあり様、仏教本来のあり様について言及しています。

浄土宗の法然は実践家でものにこだわらず、念仏を一回唱えるも多く唱えるも個人の考え次第だとのおおらかな思想。弟子の親鸞は師への敬愛が過ぎて理論家にこだわり、一種の厳しさをもって師に詰め寄ります。その親鸞の弟子、唯円は師の言行を『歎異抄』にまとめ、後段で注釈を行います。

親鸞の教えにおいては、わたしたちはすでに救われており、それゆえ念仏は救いを求める救助信号ではありえず、ただ感謝を述べることばであるとされています。これがキリシタン、イスラームとの大きな違いであり、「すでに救われている」ゆえに悪人だろうがなんだろうが、救いの自覚を持った時点で救われる、という圧倒的な地位を確保しています。

著者はこれらの背景を解説した上で、儒教由来の先祖供養・葬式仏教の批判、執着と知足、仏教本来の理想像を噛み砕いて解説しています。先祖供養については特にお怒りで、これこそインチキ宗教が流行る原因だ、とまで。

このあたり、加地信行『儒教とは何か』(中公新書、1990)で深く掘り下げられているところです。
(位牌・仏壇は儒教の廟)


【本文より】
○それでも、わたしたちはお念仏を称えます。しかし、そのお念仏は「阿弥陀さま、助けてください」という、阿弥陀仏への救助信号ではありません。「阿弥陀さま、ありがとうございました」という、阿弥陀仏への感謝のことばです。


○あえて乱暴な表現を使いますが、脳死・臓器移植に関する仏教の考え方を端的にいえば、「早よ死ね」ということです。それは、明らかです。「心臓が悪く余命いくばくもないなら、心臓移植など考えずに早く死ねばいいじゃないか。欲をかいてはいけない」と。それが仏教の教えであり、わたしたちが「仏教を生きる」ということは、その考え方、その物差しで生きることなのです。

○ですから、わたしたちは小賢しい判断をやめる必要があります。人間の物差しを捨てて、阿弥陀さまに全部お任せするのです。それが信仰であり、お念仏です。/「南無阿弥陀仏」と、言わなくてもいいのです。お念仏とは、阿弥陀さまにすべて任せきることです。そのうえで、「南無阿弥陀仏」という言葉が口に出てくればもうけものだし、出てこなければそれでもかまいません。

鏡島元隆『道元禅師語録』(講談社学術文庫、1990)

鏡島元隆『道元禅師語録』(講談社学術文庫、1990)

著者は駒大仏教学科から同大教授、総長を経て曹洞宗立宗学研究所所長となった筋金入りの学僧です。

著名な『正法眼蔵』と対をなす『永平広録』、そのうち道元禅師の語録を取り上げて注釈を付したもの。禅師のスピーチを秘書がまとめたものが今に伝わっております。

理論派で浄土宗系とはかなり雰囲気が異なる曹洞宗ですが、執着を嫌う姿勢は仏教共通のものです。

迷い、執着からの離脱。いかにも宗教の本質に思えますが、アイエンガー『選択の科学』(文芸春秋、2011)など最近の脳科学研究で決断数の上限の理論が明らかになったりと、生物としてのヒトの本質に由来する問いのようにも思われます。

【本文より】

○上堂して言われた。仏法とは、身や心についての執われがすっぽりなくなることだ。対境がすべて執着の相手でなくなることだ。ここにいたれば、悟りもないが、どこにも迷いのつけようもない。

○もし永平(わたし)ならばそうは言わぬ。仏法においていちばん究極の問題は何でしょう、と問うものがあれば、ただそのものに答えて言おう。それは、早朝には粥を食べ、昼には飯を食べ、体がすこやかであれば経行し疲れれば眠ることだ。

○巌頭のいう小魚、大魚を呑むとは、和尚が儒書を読むことだ。仏教とか儒教の対立を超えることだ。さらに、仏教とか外道の対立を超えて、仏教に対する執われもなくしてしまうことだ。
プロフィール

望月もちお

Author:望月もちお
モチ好きな祖父に名付けられた本名です。

手ぶら通勤おじさん

SFと古典
ポケモン&ガンプラ


2017.10 ガンプラに目覚める。ミニマリスト廃業。
2017.5  ミニマリストに目覚める。
2004〜プリストンテールやってました。2009がピーク。

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