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入矢義高訳注『臨済録』(岩波文庫、1989)

入矢義高訳注『臨済録』(岩波文庫、1989)

唐末の臨済禅師の言行を弟子の慧然がまとめたもの。

最後に伝記が付されており、これによると禅師は当初戒律の研究を志すも教外別伝の本義はここではないと気づき、黄檗禅師に弟子入り、のち師匠である黄檗の薦めで大愚禅師の元に参じています。

教派意識よりも師を超えることに重きが置かれ、師と同等の見識では師の徳を減じることになる、とされた禅家の家風において、臨済は自己の主体化を説きつづけます。

禅といえば、訳の分からんことを言って怒鳴ったり殴ったりしている印象がありますが、問題の枠組み自体を壊すアプローチ、論理のフレームを捉え直すプロセスと思えばそれなりにわかったようなわからんような気になります。

【本文より】

◯もし君たちが外に向かって求めまわる心を断ち切ることができたなら、そのまま祖仏と同じである。君たち、その祖仏に会いたいと思うか。今わしの面前でこの説法を聴いている君こそがそれだ。(p.35)


◯みんな古人のつまらぬ仕掛けに乗っかってくる。わしのところには、人に与えるような法はなにもない。ただ修行者の病を治し、束縛を解いてやるだけだ。[中略]改めてお前たちに言おう。本来、仏もなく法もなく、修行すべきものも悟るべきものもないのだ。それなのに、ひたすら脇みちの方へ一体なにを求めようとするのだ。盲ども!頭の上にもう一つ頭を載っけようとは。一体お前は何が不足しているというのだ。(p.101)


◯諸君、まともな見地を得ようと思うならば、人に惑わされてはならぬ。内においても外においても、逢ったものはすぐ殺せ。仏に逢えば仏を殺し、祖師に逢えば祖師を殺し、[略](p.97)


◯諸君、仏を至上のものとしてはならない。わしから見れば、ちょうど便壺のようなもの。菩薩や羅漢も手枷足枷のような人を縛る代物だ。さればこそ文殊は剣に手をかけてゴータマ仏陀を殺そうとしたし、アングリマーラは刀を手にして釈尊を殺めようとしたのだ。諸君、求めて得られる仏などありはしない。(p.140)
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