ひろさちや『わたしの歎異抄』(すずき出版、1999)

ひろさちや『わたしの歎異抄』(すずき出版、1999)

東大印哲出身で一般向け仏教解説を多く物す著者の大乗仏教論。『歎異抄』前半の親鸞の語録を題材に、日本の大乗仏教のあり様、仏教本来のあり様について言及しています。

浄土宗の法然は実践家でものにこだわらず、念仏を一回唱えるも多く唱えるも個人の考え次第だとのおおらかな思想。弟子の親鸞は師への敬愛が過ぎて理論家にこだわり、一種の厳しさをもって師に詰め寄ります。その親鸞の弟子、唯円は師の言行を『歎異抄』にまとめ、後段で注釈を行います。

親鸞の教えにおいては、わたしたちはすでに救われており、それゆえ念仏は救いを求める救助信号ではありえず、ただ感謝を述べることばであるとされています。これがキリシタン、イスラームとの大きな違いであり、「すでに救われている」ゆえに悪人だろうがなんだろうが、救いの自覚を持った時点で救われる、という圧倒的な地位を確保しています。

著者はこれらの背景を解説した上で、儒教由来の先祖供養・葬式仏教の批判、執着と知足、仏教本来の理想像を噛み砕いて解説しています。先祖供養については特にお怒りで、これこそインチキ宗教が流行る原因だ、とまで。

このあたり、加地信行『儒教とは何か』(中公新書、1990)で深く掘り下げられているところです。
(位牌・仏壇は儒教の廟)


【本文より】
○それでも、わたしたちはお念仏を称えます。しかし、そのお念仏は「阿弥陀さま、助けてください」という、阿弥陀仏への救助信号ではありません。「阿弥陀さま、ありがとうございました」という、阿弥陀仏への感謝のことばです。


○あえて乱暴な表現を使いますが、脳死・臓器移植に関する仏教の考え方を端的にいえば、「早よ死ね」ということです。それは、明らかです。「心臓が悪く余命いくばくもないなら、心臓移植など考えずに早く死ねばいいじゃないか。欲をかいてはいけない」と。それが仏教の教えであり、わたしたちが「仏教を生きる」ということは、その考え方、その物差しで生きることなのです。

○ですから、わたしたちは小賢しい判断をやめる必要があります。人間の物差しを捨てて、阿弥陀さまに全部お任せするのです。それが信仰であり、お念仏です。/「南無阿弥陀仏」と、言わなくてもいいのです。お念仏とは、阿弥陀さまにすべて任せきることです。そのうえで、「南無阿弥陀仏」という言葉が口に出てくればもうけものだし、出てこなければそれでもかまいません。
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